人間関係に悩んで、この記事にたどりつきましたか?
『職場の人間関係が辛い』
『学校の友達付き合いがうまくいかない』
このような悩みは世界中にあります。あなただけが抱えている問題ではないので安心してください。
この問題をうまく処理できるかどうかは、あなたの『考え方』1つで決まります。周りに改善してもらう必要はありません。
周りを動かす力は不要なので、解決に向けてのハードルがグッと下がります。では、どのように自分の『考え方』を変えるのか?
その最たるものが『哲学』です。
素人には難しい哲学ですが、理解してしまえば無敵の『考え方』を習得することができます。
この記事では、初心者にもわかりやすく哲学について解説していきます。あなたの人間関係を修復する一助になれば幸いです。
哲学とは?
哲学とは、この世の真理を追究する学問です。
人とは何か?神とは何か?心とは何か?国とは何か?生きるとは何か?私たちの存在そのものを考える哲学は、はるか昔から存在していました。
哲学はそんな超根本的な部分に、問いかけるわけです。もし、私が存在する確固たる証拠がなければ??世の中に悩みなんてものは、存在することはできません。
哲学の始まりと種類
西洋では、紀元前から哲学についての議論が繰り返されていました。あーでもない、こーでもないと意見をぶつけ合って発展させてきたわけです。
すると、色々な哲学が発展してきます。万物に共通の真理、存在の真理、神の真理、国の真理、、、etc
同様に、東洋でも紀元前から哲学が考えられてきました。しかし、西洋とはちょっと違います。
東洋では存在の真理に特化して、哲学が伝承されてきました。
西洋を見ればわかりますが、色々な心理を追究していった方が生活水準は高くなります。
国の真理を発展させれば国力が上がりますし、経済の真理を発展させればお金が稼げます。産業革命で、西洋と東洋では致命的な差が出てしまいました。
しかし、それが幸せかというと、また別の話です。
東洋は存在の真理のみを考え、そしてはるか昔の紀元前に真理に到達しています。その真理を現在まで伝承してきたわけです。発展ではありません。真理とは不変のものですから。
そう考えると、時代を追うごとに変化する西洋の真理には疑問も沸いてきます。このように、西洋と東洋では追究した真理に違いがありました。西洋は心理を追い求め、東洋は不変の真理を伝承する。スタートが真逆なのです。
存在の真理|人間関係で悩んでる人へ
今回説明したいのは存在の真理です。
なぜかというと、これは悩みの解決に活用できるからです。いま流行りの認知行動療法、マインドフルネスは、かなり存在の真理と似ています。そもそも、なんでこんなことを調べるようになったのか?
当時は毎日が辛く、吐き気もあり、体重もどんどん減っていく日々。そういう時って本当に視野が狭くなっていて、思い込んだら止まれません。
原因は仕事でしたが、いま思えば仕事なんてバックレちゃえばよかったです。
自分の命を削ってまでやる事ではありません。
しかし、動かない体を無理やり起こして、吐き気を抑えながら仕事の準備をして出勤。当然、食事はのどを通らず、力は出ない。よく眠れていないからミスも多い。さらに、夜は睡眠薬を飲んでも眠れない。まさに悪循環。
『通勤中に事故起こせば、出勤しなくてもいいかも』
本気でこんなこと考えていました。でも次の日は、また動かない体にムチ打って仕事に行く・・・過去に2回ほど、上記のような経験をしています。
しかし、存在の真理を理解し体験すれば、症状の重さや期間を軽減させることが可能です。
1つ断っておきたいのが、宗教の勧誘ではないという点です。
哲学の話は宗教と切り離すことができません。しかし、宗教に勧誘したいわけではなく、考え方をみにつけて欲しいのです。これを読み終わるころには、価値観が変わっているでしょう。
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存在の真理を端的に説明するなら『仏教』です。
しかし、日本の仏教ってどうでしょう?葬式とか、仏壇とか、お墓とか・・・死にまつわるものばかり。なんだか嫌なイメージが多いのではないでしょうか。
いわゆる葬式仏教というやつです。しかし、これは本来の仏教の姿ではありません。
本来の仏教は『生きるのは辛い、だから楽に生きる方法を教えよう』という釈迦の教えなのです。
なぜ、日本の仏教は葬式仏教になってしまったのか?そのあたりまで、キッチリ説明していきます。
最初に頭に入れておいてほしいのは、『存在の真理=仏教』という点です。
100%正確な表現ではありませんが、理解しやすくするためにはこれでOK。こういうのを『嘘』だという人もいますが、これは『方便』です。手段は何でもいいのです。理解さえしてもらえれば。
ヤージュニャヴァルキヤのアートマン
それでは歴史を遡って『存在の真理=仏教』をみていきましょう。まず、紀元前700年ごろに東洋でヤージュニャヴァルキヤが『アートマン』という事を言い出します。
アートマン、、、いきなり意味不明ですね。なので、かなり個人的にかみ砕いて説明します。『アートマン=自分』でOKです。ヤージュニャヴァルキヤはこう言いました。
『アートマンは~ではない。~ではない。としか言えない。』
普通は、以下の理論が成り立ちます。
- 私の職業は薬剤師だ。だから『私は薬剤師だ』と言える。
- 私の性別は男だ。だから『私は男だ。』と言える。
でも、ヤージュニャヴァルキヤ的に言えば『私は薬剤師ではない』『私は男ではない』となるのです。なぜか?
『アートマン=自分』とは認識するものなので、認識されることはないからです。
自分が認識する。これはいいでしょう。そのままです。私がブログを書いているときは、目の前にパソコンがあります。だから、パソコンを認識している。つまり、パソコンはそこに存在しています。
じゃ、『アートマン=自分が認識されることはない』ってどういう意味でしょうか?
これは無限後退と言います。
私が認識されるためには、私を認識する誰かが必要。仮にAとします。
- つまり、Aが私を認識すれば私は存在する。でも、そのためには、、、Aの存在を確定させなければならない。
- じゃ、Aを認識するBがいればいい!でも、そのためには、、、Bの存在を確定させなければならない。
- じゃ、Bを認識するCがいればいい!でも、そのためには、、、以下エンドレス。
この無限後退があるかぎり、私を認識する事は不可能なのです。そうなると『私は薬剤師だ』『私は男だ。』といった認識対象にはなれない。
この理論から言えるのは『私は薬剤師ではない』『私は男ではない』という否定的な捉え方しかできないということです。さぁ、これが人間関係で辛い時にどう役に立つか?
『私は職場の人間関係で悩んでいる人ではない』
『私は友達とうまくいってない人ではない』
素晴らしい発想転換ができるのです。いまから2,700年も前の哲学ですが、現在にも十分通用する真理なのです。しかし、大きな欠点が1つありました。それは釈迦の説明で解説します。
その前に、西洋の哲学を見ていきましょう。
原子論|ヘラクレイトス、パルメニデス、デモクリトス
東のヤージュニャヴァルキヤから200年後、西ではヘラクレイトス、パルメニデス、デモクリトスが存在の真理を追究していました。
ヘラクレイトスは存在は流転と言っています。万物は流れるように変化しているということです。もっともな考えです。
雨は空から降ってきて、地面に吸収され、植物に吸収される。
植物からは実ができ、動物が食べれば血や肉になる。
川に流れた水は海まで流れ、気化して雲になる。そしてまた雨になって、、
このように、存在は色々と変化するよっていう考えです。一方、パルメデニスは反論しました。
土は土でしょ。土が水に変化するなんて事はないよ。石は石でしょ。
細かくなれば砂だって?名前は変わるけど、構成してる物質は変わらないじゃん。細かな石ってことでしょ?
このように、存在は不変だよって考えです。どちらの意見も的を得ていますね。それらをまとめて解決したのが、デモクリトスの原子論です。
紀元前の話なので、非現実的な事を言いそうですが、実は現在の原子と全く同じ考え方でした。
原子という単位は不変だが、それが組み合わさる事で様々なものに変化する。
これにより、不変と変化を一緒して説明することができました。(厳密にいうと原子は陽子、電子、中性子に分割できますけどね)恐るべきは、2500年も前に原子という考えに到達している点です。
しかし、西洋ではこの後、国、宗教、経済などの哲学を発展させるので、存在の哲学は一時停止となります。
釈迦が教えたのは無我
一方、同時期に東洋では釈迦が仏教を確立させます。先ほど説明したヤージュニャヴァルキヤの『アートマン=自分』。これは素晴らしい真理なのですが、それでも現状はかわらないという矛盾が生じました。
『私は職場の人間関係で悩んでる人ではない』
『私は学校の友達関係に悩んでる人ではない』
素晴らしい哲学ですが、こんな声が聞こえてきそうです。
その通りです。そこで釈迦は、この矛盾の解決方法を教える事にしたのです。『こうすれば、ヤージュニャヴァルキヤの言ってることがわかるよ』といったように。これが仏教の始まりです。
ただ、釈迦は1つだけ訂正を加えました。ヤージュニャヴァルキヤは『アートマン=自分』という考えを庶民に普及させてしまいました。本人はそんなつもりはありませんでしたが、庶民が勝手に解釈してしまったのです。
だから、釈迦は『アートマン=自分』も否定しました。つまり『無我』です。
アートマンなどという言葉を作ったのがいけませんでした。それでは『私はアートマンである』という認識が発生してしまいます。『~ではない』『~ではない』としか言えないのに。
そう、その通り!しかし、現実には辛いと感じてしまう。これは本来は無い事を、自分と同化させてしまうために発生しています。この矛盾をクリアする事が、仏教でいう『悟り』なのです。
つまり、悟りとは体験をもって初めてわかるものです。
見聞きしただけじゃ、わかった事(悟り)にはならないのです。同時期に中国には、老子という哲学者がいました。
彼は『道(たお)』という言葉で、存在の真理を表現しています。道とは何の区別もない、1つの世界を表した言葉です。
『苦しい私』『辛い私』そんなものはない。それはお前が勝手に区切っただけだ。ようは思い込んだだけだ。だってそんな区別はないんだから。
これは仏教の考えにそっくりです。
龍樹による空の哲学
龍樹は『空』の理論を持っていました。これは釈迦の『縁起』の影響を強く受けていると考えられます。
縁起とは、様々な事象は様々な要因から発生しているんだから、自分で成し得たことなんてないんだよってこと。
そうすると、龍樹が空(なんもねー)という考えにたどり着いたのにも納得できます。
もう少し後にできる般若心経も『空』の理論を表したものです。日本では『お経=怖い』といったイメージですが、本来の意味は全く違ったものです。
般若心経では『なんもねー』と言い続けます。そして最後に『呪文を唱えて彼岸に行け』というのです。
『空』を理解して、この世には何の区切りもないんだとわかっても、一番最後に『私は空を理解した人です』という区切りだけは残ります。
悟りとはそれすら区切らず、全部を一緒にした境地なのです。
そんな時にあれやこれや説明しても無駄。だから呪文をエイッ!っと唱えて悟りの世界に行って来いよって意味。
仏教はこれほどまでに『何にもねーんだよ!』と、人々に教えています。
悟りとはいったい何だ?
彼岸、死後の世界、死んだら仏、境界がない、区切りがない、何にもない、全部一緒、無我、、、『悟り』に関係のありそうな言葉はこんなところでしょうか。
実際に体験しないとわからない、という点がネックですね。しかし、あえてこれらの言葉から悟りを具体的に定義してみると、、
悟りとは、無意識状態を認識する事だと言えます。
(定義しちゃダメなんですけどね。それって認識してることになりますので。)
私の解釈ですが、無意識状態を認識=夢心地状態だと考えています。この見解は、後述する瞑想について読んでもらえると理解できるはずです。
日本の仏教は葬式仏教
日本の仏教は、500年頃から始まりました。聖徳太子が十七条憲法に仏教を取り入れたことで、日本における仏教が広まったと考えられています。
その後、最澄と空海による2大仏教が出来上がります。ですが、日本の貴族には仏教の呪術的なところばかりがウケてしまいました。
それじゃダメでしょ!って事で法然、親鸞、栄西、道元などが、本来の仏教の再興を始めました。しかし、その中には物騒なものもあり、一揆をおこすこともあったのです。
徳川幕府が開かれると、幕府は仏教を国教にしました。そして、国民は檀家になるように、制度を整えたのです。これにより、仏教から一揆が起こる事はなくなりました。そして、海外から余計な宗教が入ってくることもなくなりました。
しかし、同時に仏教の普及活動もなくなくなりました。日本人全員が仏教徒なので、普及させる必要がないのです。それは、仏教の腐敗を意味していました。競争相手がおらず、安定していたら向上心を維持できるわけがありません。ただひたすら、儀礼だけをこなしていけば、お金が手にはいるのですから。
そして、死=怖いものという認識から、お墓、お経、仏壇、お寺などと恐怖が結びつき、日本の仏教は哲学とは程遠い葬式仏教に成り下がりました。
以上、2700年前から始まった存在の真理の歴史でした。西洋では、1800年にソシュールが記号論という考えを打ち出します。これはモノや事象っていうのは、名前を付けて区別してるから存在するんだよっていうものです。ちょっとだけ、東洋に追いついた感じです。
その後、1900年にサルトルが現れます。彼によって西洋での存在の真理は、2700年前のヤージュニャヴァルキヤと同じ結論に達するのでした。
ひたすら座る|道元の只管打坐
日本の仏教では、道元だけを説明しておきます。なぜなら、道元の考えが一番悟りを体験しやすいからです。『無我』になるためには、思考を停止しなければなりません。
その為、仏教は色々な宗派に分かれていきました。しかし、手段はどうあれ目的は全て一緒なのです。どの宗派も信者を悟りに導きたいのです。
道元が悟りを体験するために必要としたのが『禅』でした。
『只管打坐』、、つまり、ただ座るだけ。とにかく、座る。ずっと座る。
公案という名のトンチ(一休さんの宗派)、南無阿弥陀仏と唱え続けたり、変な禁止事項をたくさん作ったり、、他の仏教と比べると『座る』だけなので比較的制限なく実施できます。
禅の科学的根拠
今までは哲学の側面から悟りについて書いてきましたが、ここからは科学の話になります。
座る、、、瞑想、、、そう、現代で言うならマインドフルネスのことです。
マインドフルネスをやると、脳の灰白質が増えることが証明されています。精神疾患の患者は灰白質が減っているという事実を考えると、マインドフルネスがいかに直接的に有効なのかがよくわかります。
よくよく考えれば、釈迦だって菩提樹の下で座っているときに悟りを開いたのです。ただ座るという行為は、悟るには最適なわけです。
さて、瞑想している人の脳波を調べるとθ波(シータ)といわれる脳波が記録されます。実はこの脳波、瞑想以外でも出るときがあります。勘のいい人ならもうわかるはず。
夢を見ている時です。
悟りは『無意識状態を認識=夢心地状態』だろうという私の見解の根拠はここからきています。瞑想をして、思念がなくなってきて、なんだか夢心地のような感じになる、でも寝ているわけではない、、ここが悟りの境地なのでしょう。
まるで此岸(現実)と彼岸(あの世)の境界を漂うような、、眠ったら彼岸になってしまう、しかし覚醒しすぎれば思念が沸いてきて此岸になってしまう。
これで、哲学を科学的に説明するができました。
私は悟っているかも、、?
悟りとは何の区切りもなく、すべて一緒のごちゃまぜ状態。傷つく心なんてない。辛い心なんてない。そんなのは自分が勝手に『私の辛い心』と名前を付けて、それが自分だと思い込んでいるだけ。
このように、言葉では理解する事はできます。しかし、体験がないと真に理解したと言えないのが『悟り』なのです。
私が力説できているのには理由があります。実は悟っているかもしれないのです。私は精神的に辛くなった時、よく瞑想をします。
もちろん最初は思念が沸いてきますが、『そういうものか』と受容し続けます。客観的に見続けます。まるで、思念は目の前のテレビに放映されてる映像かのように。
これは、思念(区切り)を自己と切り離す作業です。
私は思念が放送されているテレビを観てるだけ。つまり、観客。つらいと感じる自分は、勝手に映像と自分を結びつけただけで、実はテレビ放映されているだけだったのだ!という感じ。
20分も瞑想を続けていると、だんだんと皮膚の境界がぼやっとした感じになってきます。手を組んでいるのにその感覚がなくなる、、そして次の瞬間ハッとなる。
この数分間が『無我』つまり『悟り』なんだと思います。この間、不安や苦しみはないし、喜びもない。本当に何にもない。
ハッとした後は理解する。『何もないんだな』って。しかし、普段の生活をしているあいだ、ずっと悟りを保つのは不可能です。五感からは色々な刺激が入ってくるので、本来はないものをまた自己と同化してしまいます。
そんな時は瞑想して『悟り』を体験する。人間はこれを繰り返してこそ、安定を保てるんだと感じています。実は瞑想にこだわらなくてもOKです。それこそ、ピアノとかでもOKでしょう。
ピアニストは仕事なので色々考えてしまうでしょうけど、私のように独学でピアノをただ弾いている人間にとっては、無我を得やすいです。
楽譜もちゃんとは読めないので、手が勝手に動くようになるまで1曲を練習します。するとどうでしょう、、ピアノを弾いているときは手を動かそうとしていないのに、勝手に動いている。
瞑想ではなくても、何かに集中することで、意識せずに体が勝手に動くようになれば、それは悟りと言っていいでしょう。
これは老子でいうところの『無為自然』というやつです。
老子『そりゃ、勝手に物事が進んでいくだけだよ』
手段はなんだっていいんです。悟りさえ開ければ。
まとめ
さて、こんな感じで哲学的観点から、人間関係を改善しようと説明してみました。相手を変える必要はなく、自分が悟ればいいので比較的カンタンに実践することができます。
だから、辛い時はとにかく座ってみよう。毎日30分でいいから座ってみよう。そうすれば悟りを体験できるかもしれない。
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